<社会教育>の立場からは、「人は変われる可能性がある」という前提を手放すわけにはいかない、という主旨のことを、ある先輩から話されたことがあります。
<社会教育>(学校教育以外の組織的な教育活動で、子どもから大人までを含む)においては、大人の学びが大きな位置を占めています。
大人であっても、自ら学び、自らを変えることができる、という前提を手放すのであれば、<社会教育>の意味はないのだ、というわけです。
「この人は変わらない」と感じる人に出会うことはあります。それでも、人間は変わることができる、という信念(人間観)を持ち続けることができるのかどうか。
先の先輩は、スパッと割り切って、そのように言ったのではありませんでした。この人は変われない/変わらないのではないか、という場面の中で、逡巡しながら出た言葉でした。
この、逡巡しながら、というところが大切なのだと思っています。
いろいろあっても、それでも、可能性に賭けてみる、という、わずかな細い線だけは断ち切らずにおくこと。
「わかる」ことは「かわる」ことであるというように、学びや気づきが訪れた後の、世界や自分の見え方のひろがり/深まりの経験の共有が<社会教育>の醍醐味です。
そのような幸せな経験の可能性は、すべての人にひらかれているという考えを、逡巡しつつ、持ち続けたいと思っています。